園田の昔

歴史文化部会では「園田の昔」と題したコラムにより、この地域の歴史をわかりやすく皆さんにお伝えしていきます。
担当:松田

園田の昔 no.1 (園和住宅の造成について その1)
園田の昔 no.2 (園和住宅の造成について その2)
園田の昔 no.3 (猪名川水系と天手力男命
園田の昔 no.4 (猪名川の水運 その1
園田の昔 no.5 (猪名川の水運 その2
園田の昔 no.6 (天狗塚
園田の昔 no.7 (猪名川の水害
園田の昔 no.8 (韋那君、為奈真人と猪名部
園田の昔 no.9 (「食満」の地名と神社
園田の昔 no.10(魚類信仰について
園田の昔 no.11(承久の乱
園田の昔 no.12(園田地区の生成
園田の昔 no.13(園田の小学校事始め
園田の昔 no.14(猪名川の洪水と水防工事
園田の昔 no.15(神崎川について
園田の昔 no.16(コレラとその対策)
園田の昔 no.17(武田信玄の孫・武田勝親の墓)
園田の昔 no.18(園田競馬場)
園田の昔 no.19(十九神社の由来)
園田の昔 no.20(冨田の七つ石と牛回し)


園和住宅の造成について(その1)

園和住宅は椎堂、東園田町三四五八九丁目で阪急電鉄が昭和十二年販売開始した。
当初阪急神戸線は市内では塚口駅だけがあった。
昭和五年淡路島から園田競馬場が移設された時には競馬開催日のみ現園田駅の西方に臨時停車場が設けられた。
昭和十一年現在地に園田駅が設けられ、それに先立って園和住宅の建設が始まった。
先ず用地買収が行われた。
当時は全て農地と荒れ地であり、買い入れ価額は坪二〜五円であった。
住宅建設に先立って、土地造成、水路変更、橋造成、電力配線、上水道設置が行われた。
都市ガスは当時此の地域迄配管されていなかったので、当初炊事暖房の熱源は電力を用い、電化住宅と称した。
風呂は石炭や薪を用いた。

土地造成の用土は島の内で田能の字当別当と伊丹市域8町歩から掘られ、トロッコ線を敷いて小型ジーゼル機関車でトロッコ列車を引いて建設地に運んだ。
採土の跡に出来た大きな池は施工者の大倉組の名をとって大倉池と称された。
大倉池は渇水時の農業用水確保に有効であったが、阪神上水道組合の新浄水場設置によって、現在は小さな池に変わっている。農業公園のバラ園は貯水槽の上に盛り土して造ったものである。

道路整備は自動車が走れる二車線とし、且つ直線道路とした。
また全ての住宅が車道に面し得るようにした。

水路変更は此の地に三つ又井の溝があったのを直線道路とするため水路も直線路とし、穴太集落に至る本流やその他の必要な所は道路下に農業用水のための流路をつくった。

その際、新水路に横断道路毎に鉄筋コンクリート製の橋を架け、北から順に一の橋〜十二の橋と名付け今もその字が残っている。 また橋の端部橋頭上にコンクリート製の花生けを設けた。

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園和住宅の造成について (その2)

電力配線は猪名川水力発電を吸収した阪急が配電していたが、園和住宅の所要量から考えて新たに高圧線を引き現園和北小学校のプール辺に設けた変電所を経て配電した。

上水道については昭和十一年に設立された阪神上水道組合に園田村は加入していたが、此の地域には未だ配水されていなかった。
阪急は上水供給のため私設園和住宅地上水道を設立し、園田北公民館の北辺に浄水場を設置した。
井戸は径3m深さ10.5m、取水量は日量1000立方m、砂除池は径10m深さ2.7m,濾過器はミカド式急速濾過機、送水ポンプは径5インチ20馬力、配水管延長は12kmであった、昭和22年尼崎市に売却、廃止された。

住宅建設について阪急は用地のみの売却はせず、全戸建売住宅とした。
各戸は夫々異なる建築様式で概ね和洋折衷とし、外観上は純和風でも内部に洋式応接室を設ける等、工夫がこらされ、純洋風の家もあった。
敷地は大小あったが
住居用は概ね百坪以上で二百坪の家もあった。
五丁目近辺の第一回売り出しでは駅前(駅の西部)の11軒と住宅内の3軒の商店と住宅用46戸であって、売り出し価額は商店が6300円〜7750円、住宅用が9350円〜17700円であった。

当時の工場労働者初任給が日給45銭、大将の年俸が6000円であった事と比べると甚だ高価であったが、評判が良く売れ行きは好調であった。
しかし昭和十三年七月大水で猪名川堤が決壊し、一帯は床上浸水し、且つ阪急神戸線の路線が堤となって水引が悪く、園田は恐ろしいとの風評が立って売れ行きが止まった。
そこで阪急は売価を約半分にしてようやく完売した。

戦中戦後の移住や世帯経済の悪化による売却によって多くの住民が変わり、その上阪神大震災の被害もあって、小住宅への立て替えがおこった。
そのため現況は当初の姿から大きく変わった家も多い。

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猪名川水系と天手力男命

尼崎市内で最も多い神社は須佐男神社(素盞嗚神社)とされ、特に武庫川水系は、その傾向が強く、例えば武庫地区は十社の内、八社迄須佐男神社である。

此に対し、猪名川水系は異なる姿を示し、例えば園田地区では十六社の内、素盞嗚神社と稲荷神社が各三社に止まっている。
本稿で取り上げた天手力男命を祭る
神社は園田地区の穴太村、法界寺村、小田地区の善法寺村、額田村に四社の白井神社があり(但し額田は大正四年神崎村の素盞嗚神社に合祀された)、上流の猪名川町の内馬場と肝川、川西市の山原に戸隠神社の合計七社があると云う我が国でも珍しい姿を呈している。

周知の通り天手力男命は天照大神の岩戸隠れに際し、岩戸を引き開き、その岩戸を地上に投げたのが現在の戸隠山になったとされる事と天孫降臨に際し、八呎鏡を守るよう大神から命ぜられ、そのため今も伊勢内宮内に相殿神として祭られている。
天手力男命を祭る一般の神社としては信州戸隠神社と富山の立山、東京の湯島天神(菅原道真は後に合祀された)等がある。
この内、戸隠神社の奥宮に
祭られている天手力男命は元来九頭竜神が祭られていたのを同神の招きにより天手力男命が祭られたとの伝承があり、これと同様の伝承が猪名川町の戸隠神社にもある。
九頭竜神は水防、水乞いの神であり、天手力男命の力強さからスサノオと同様に洪水、疫病を防ぐ意味から猪名川流域に七社が祭られたと思われる。

又穴太の白井神社は「歯がみ」として著名であり、我が国に歯の神はいくつかあるが三大歯がみには出羽三山、信州の戸隠神社と穴太の白井神社が上げられており、大阪府下を初めとして白井講が広くつくられ、穴太の白井神社の鳥居は大阪天満の寄進である。

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猪名川の水運 (その1)

猪名川を通る物資の輸送は古代から行われていた。
神功皇后が新羅侵攻の時、能勢の山から杉の木を神崎まで運んで造船されたことが摂津風土記に記されており、また住吉大神が為奈川を通して宮城を造るための材木を運ばせたとの記録も残っている。

江戸時代には米、酒やその他の物資輸送が主体となっており、猪名川の水深が浅いことから京都の高瀬川輸送から始まった平底の高瀬舟が用いられるようになった。
猪名川通船は利用者側と川筋にあたる農村との水利に関する争いが続いた。
1759年川筋に当たる田能村から法界寺村までの七ケ村の訴えでは年貢米は神崎まで運んで貰って良いがその他の物資は池田で降ろして欲しい。
その理由は通船には川幅一間水深八寸あれば可能であるが猪名川(当時では池田川、稲川等と記されている)は石川であり、この水深を保つためには川幅三、4間水深二、三尺も掘らなければならず農業用の取水の時に困難が生ずる。
且つ井戸水さえ保てない事態が起こるので出願を拒否して欲しいと述べている。

また1764(明和元年)の猪名寺村を加えた九ケ村の訴えでもこの地域は川に対して高地であり、通船のため川底を掘っては高三千石の収穫を維持するのが難しいとの由である。
これに対する出願人の訴えの一例ではこれまで伊丹から神埼まで年に四万駄を運んで来た。
伊丹から尼崎迄の運賃は舟運では一駄につき銀一匁一分であるのに対し馬借では一匁五分とられる。
今後夏期は控えるがその他の時は船運をお願いしたい。
その代わり冥加金を年に銀百匁差し上げるとの願いが出されている。
これに対し奉行所は川筋の村と談合せよと指示している。
結果として四月から八月までは通船しない。
各村が新たに井堰を作る時には人足三十人を派遣する。
その人足賃は堰一ヶ所につき銀六十匁で八堰あるので計四百八十匁である。
その他の徳用を説いて納得を得たので各村を召し出して確認して欲しいとの願いを改めて出している。

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猪名川の水運 (その2)

下り荷に加えて、上り荷もあって、一例では伊丹への酒米輸送について神崎での保管が悪く損耗が出るので善処して欲しいとの訴えもある。
猪名川は度々の洪水のよって猪名川と藻川の水量が変わることがあり、猪名川の水量が著しく減ったときには当時田能村にあった舟溜まりを猪名寺に変えて藻川を通船路とすることもあった。
以上三俣井組に属する島の内の争いについて述べたが、藻川西の大井組でも同様に水利に関して反対があり、全てが決着したのは
1784年(天明四年)と伝えられている。
高瀬舟は川筋の村にその船株が渡され、一定の金額がその村に給付された。

明治二年には二十五艘組の名があるが、文政九年椎堂村の訴状では六十六番の株をいただいているとあり、文中ではこの株を庄本村の問屋に役所に無断で貸して年に米五石相当の貸料を貰っていたとある。
この間に富田村と椎堂村から通船不能の時には猪名川堤外の芝地で牛馬による陸上輸送を許可して欲しいこの件については周辺の村や庄本村の問屋とも話がついているとの願いが文政五年に出ている。
猪名川通船を望んだのは前述の他に上流の現川西市、猪名川町も願望が強く、兵庫県の許可を得て新たな会社を設立し、東畦野村から多田神社前までの掘削を明治七年末に終え戸の内まで通船が可能となった。
その費用は二千五百四〜三円余と報告されている。
しかしながら川辺馬車鉄道を改組した摂津鉄道が明治二十六年に伊丹から小戸村(川西市)まで路線を延長し川西までの鉄道輸送が可能となった。
この鉄道は阪鶴鉄道を経て現在今のJR福知山線となっている。

また明治四十年には箕面有馬鉄道(現阪急電鉄)が創立され、此鉄道の創立目的の一つに川西からの物資輸送が挙げられていることからさらに鉄道輸送が強化された。
ここに於いて猪名川通船の意義が失われ、今やその姿を見ない。

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天狗塚

南清水にある大塚山古墳は昭和13年に全て採土され、現在は2分の1サイズの模型が残されているのみである。
元来此処は天狗塚と言われ、天狗が住み、農民が憤土を取る度に雨が降るとされていた。

京都大学の調査の結果、長さ42m後円部径18m前方部幅16mの前方後円の中期古墳であり、前方部には小祠、後円部には天狗塚の碑があった。
又幅8,4mの周濠が残っていた。
墳丘上には葺石と円筒埴輪があり、主体部である後円部中央には木棺の跡があり、木棺は高野槙製で内面に朱があったようである。
此処には碧玉製管玉、瑠璃製蜻蛉玉、鉄製直刀、変形神獣文五鈴鏡、金かぶせの鉄片等が出土した。
鏡は径10,3cm厚さ3mmで周囲に径1,8cmの鈴5個がついている。
内部土渠は底にこぶし大の礫が敷きつめてあり、遺棺、遺物を埋納するために厚い木炭層を置いたように考えられている。

又土坑の周辺には次記が埋納されていた。
利器、直刀1口、刀子3口、槍身2口、鉄鏃100本以上、鉄鋸2個、斧頭1個、鉄鎌1個。
馬具;鞍金具1、鐙金具1、轡金具1,玉葉5,雲珠3,飾金具16,他。
珍しく、鏡を除いて青銅器が全く出土せず、又馬具は本来渡来品が多いのに対し、此処では国産品である
可能性が高いのは此の墳墓製作の時期に一つの示唆を見せている。
なお遺物は兵庫県の依頼により全て京都大学に保管されている。

天狗についての民話は三好美佐子氏が作話されている。

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猪名川の水害

猪名川は古来大雨等により度々決壊した。
記録では天文5年(1536年)の大洪水を初めとし、江戸期では約24回、明治以降、昭和13年まで13回の洪水が記されている。
その内、延宝7年(1679年)では杜若庵に供養塔が建てられ、元文5年(1740年)では武庫川、猪名川の大洪水があり、古絵図が残され、田能の堤防に供養のための
宝篋印塔が建てられた。
最近では昭和13年の豪雨で猪名川、藻川ともに決壊し、島の内全域が高地を除いて冠水した。
その冠水高が各地に標示されており、猪名川河川事務所開設の契機となった。
園和住宅も床上浸水し、阪急は値下げして残りを販売した。

洪水対策(堤防積上を含む)は江戸期に国役普請(官営管理修復)が幕府勘定奉行、後に大坂町奉行の管轄下で行われ、貞享3年(1680年)に最初の工事が行われている。
その下で尼崎藩は有馬、武庫、川辺郡を管理し、後には猪名川に限り能勢郡まで担当させられた。
作業、工事の費用は1割を幕府が負担し、残りは石高百石当たり人足5〜8人、後には銀18〜30
を代わりに村々が負担した。
大工事の時には当該村だけで無く他村も助人足の供出が求められた。
また、堤防修理については例えば藻川東岸の嵩上げをするのに対し、西岸の大井筋各村から、こちらが危険になるとの訴訟が出るような事もあった。

昭和15年内務省の直轄工事が始まり、昭和27年〜34年に藻川改修、昭和34〜37年に戸ノ内捷水路工事、昭和39年大井井堰継足し、昭和40〜44年に利倉捷水路工事(猪名川改修)が行われた。
その後も昭和49〜54年駄六川改修、昭和53年から川西、池田地区改修へと続いている。

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韋那君、為奈真人と猪名部

和名類聚鈔にある川辺郡八郷の内、為奈郷は現在の園田周辺に比定されている。
イナのイは本来ワ行のヰであり、猪名、為奈、韋那など幾つかの漢字が当てられている。

イナの名を持つ豪族は二系統ある。
その一つは韋那君と後代の為奈真人であり、韋那君は古事記では宣化天皇の御子恵波王の後裔とされ、為奈真人は新選姓氏録では宣化天皇の御子火焔王の後裔とされている。

一方、猪名部は日本書紀では応神天皇期に官用で作られた五百隻の船を武庫水門に集められた時に、新羅の調貢使が来て誤って失火し、これらの船を焼いた。
そこでこれを責めたところ、新羅王がこれを聞いて有能な船大工を送ってきた。
これが猪名部の始祖である。
その後6代後の雄略天皇期に木工の猪名部眞根は石斧で材木を切る時、一日中切っても誤って怪我をすることが無かった。
天皇がいつも誤らないかと尋ねられたところ、そうだと答えた。
そこで、天皇は采女(うねめ:下級女官)を集めて裸にし、ふんどしだけ着けさせて相撲を取らせた。
猪名部眞根はこれを見て不覚にも怪我をした。
天皇はそこで何という奴だと叱られて、物部を付けて野で死刑にさせようとされた。
これに、同行の者が眞根を惜しんで、仕方のないことだが、彼の技能が失われるのが悲しいと歌った。
それを聞いて天皇は人を失うことを惜しまれて、馬を刑所に走らせこれを許された。

猪名部はその名のとおり猪名の地にいた部民であるが、木工としての技能が高く評価され、三重県、福井県などにもその子孫が拡がり同族として交流した。
三重県の員弁(いなべ)郡は猪名部の移住地とされ、同郡には穴太村が現存する。

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「食満」の地名と神社

食満(けま)の地名の内、「ケ」は朝餉(あさげ)、夕餉(ゆうげ)といわれるように、餉の字で表される食物を示し、食の甲骨文字は で、食器に食物を盛って蓋をした形である。
「マ」は場所を意味し、播磨(はりま)、飾磨(しかま)のように用いられている。
つまりケマは食物が多い場所からきたといわれる。

その意味か食満の神社は総て食物の神を祭る稲荷神社である。
稲荷神社は渡来人である秦(はた)氏が和銅4年京都伏見の伊奈利山に倉稲魂(うかのみたま)神他の神を祭ったのが始まりとされ、イナリは稲生(いねなり)からきたといわれる。

稲荷神社の祭神は市内ではに倉稲魂(うかのみたま)神、宇迦之魂(たかのみたま)命(みこと)宇賀神、大宜都比賣(おおげつひめ)神、保食(うけもち)命、受持(うけもち)神であり、食満3社は、保食命である。
保食命は日本書紀の一書(あるふみ)天照大神(あまてらすおおみかみ)が月読尊を保食神へ遣わされた時、保食神が口から種々の食物を出して振舞われた。
それを見て月読尊が汚いと恐れられ保食神を殺された。
大神はそれを聞いて恐れられ、お前とは会いたくないといわれ、このため日と月は分かれて住むようになった。
保食神の死骸から、頭に牛馬、額に粟、眉に蚕(かいこ)
、眼に稗(ひえ)、腹に稲、陰部に麦、大豆、小豆が生じた。これが食物の始まりである。

荷神社に狐が関係するのは、東寺建立の際、稲荷神社が東寺の鎮守神とされ、この際、玄狐に乗る荼枳尼天(だきにてん)本迹(ほんじゃく)関係を結んだためである。

他に、上食満の小字大将軍にあった大将軍社と中食満にあった天神社がそれぞれの稲荷神社に明治末年に合祀されている。
大将軍は中国渡来の方位神であり、合祀の際、応神天皇に変わられている。
天神社の祭神は国常立(くにのとこだち)神であり、日本書紀では我が国初めの神、古事記では最初から6番目の神である。
旧社の跡に天神屋敷の碑があったが、山陽新幹線敷設の際失われた。

荼枳尼天(だきにてん):神通力で人の死を六ヶ月前に察知し、死者の心臓を食べるといわれ、神通力を得ようとする修行者の信仰を集めた。天女形で白狐に乗ることから、稲荷信仰と混同されるようになった。

本迹関係:本地(ほんじ)垂迹(すいじゃく):仏・菩薩が人間を救うために神道の神となってこの世に現れること。

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魚類信仰について

 猪名の里周辺には鯉(戸ノ内)、鯰(穴太)、ギョーギさん(猪名川)、と三つの魚信仰があり、此れ等はその所では食べないと言う習慣があった。

鯉については三種の伝承があり、戸ノ内、庄本の伝承は昔スサノオ命が鯉にのって海から猪名川を遡上して来られたとの説(戸ノ内、庄本の祭神はスサノオ命)と昔行基が猪名川に橋を架けようとされたが、大水のため困難であった。
そこへ鯉が多数集まって川を防ぎ架橋が可能となったとの説がある。
ちなみに徳川幕府によって大阪城防衛のため取り壊され、渡し舟に代わった。
今もその際の燈籠が庄本側に残っている。

神崎に伝わる説はスサノオ命が賊に襲われた時、鯉に乗って逃げられたとのことである。
鯰は穴太の白井神社に伝わる伝承で、神の守りと言われる。
また神社が出していた「ゲン、蛇、蝮、蠍」(ゲン(虫偏に元):とかげ、やもり)の護符によって皮膚病の癜(ナマズ)が直ったとも言われる。
村人は昔境内にあった池に鯰を奉納したとされ、現稲荷神社の所に昔鯰の絵馬堂があった。

「ギョウギさん」は猪名川、藻川に戦前多くいたカラフルな魚で鮒の変種であったらしい。
その由来は不明であるが、その変わった姿から行基にたとえて此れを尊重したものであろう。

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承久の乱

承久3年(1221年)椋橋(くらはし)庄(倉橋庄)の支配権をめぐって後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間に争いが起こった。

椋橋庄は庄内を基点とする東椋橋庄と戸ノ内を基点とする西椋橋庄からなり、この内に椎堂、穴太、富田、法界寺、善法寺、額田が当時含まれていた。
源頼朝は幕府政治をはじめるとともに古来の国守、郡司の他に、国には守護、荘園等には地頭を置き、武家の土地支配を制度としてつくった。

しかし、荘園主と地頭間のように支配権が争われていた。
そのような中、後鳥羽上皇は寵愛する長江局(ながえのつぼね)(元白拍子(しらびょうし)亀菊)に椋橋庄他を与えた。
しかし、時の地頭は亀菊の命に従わず、後鳥羽上皇は源実朝の葬儀に際して幕府に椋橋庄地頭の解任を要求した。

幕府は頼朝から与えられた地頭職を朝廷から奪われることを恐れ、北条義時(時政の嫡男)の弟時房が千騎の侍を率いて上洛し、拒否することをことを申入れた。
これに対し上皇は大内守護、京都守護を殺し延歴寺にも根回しして近国の兵を招集し、北条義時追討の院宣を五畿七道に下した。

これにより幕府は動揺したが、尼将軍政子の大演説によって結束し、十九万騎の兵を送り上皇方を打破した。
これによって幕府は次の処置を取り、ここに武家政治が完成した。

@後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡へ配流。
  土御門上皇は土佐へ(後に阿波へ戻られた)落ちられた。
  四歳の天皇は外祖父九条家に引取らせ廃帝とし、明治になって仲恭天皇と諡(おくりな)された。

A朝廷領は一旦全て没収した。
B上皇方の武家は全て処刑した。
C京都に六波羅探題を置き西国を管理した。
D国司と守護の権限を守護が上位として定めた。

〈補記〉庄本の椋橋総社の境内に亀菊天満宮がある。

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園田地区の生成

園田地区の史料初見では田能(たの)、椎堂(しど)、富田(とうだ)、穴太(あなう)、法界寺、戸ノ内、食満(けま)、中食満、下食満、川原宮(瓦宮)、小中島(おなかしま)、猪名寺、清水、田中、曼陀羅(まんだら)寺、岡院(ごいん)、若王寺(なこうじ)、上坂部の18ヶ村であった。
貞享2年(1685年)森村(現南塚口町)が上坂部から分村し、19ヶ村となった。
明治6年郡町村制により田中と清水は同じ川辺郡内に同名の村があるので区別するため、口田中村と南清水村に改名された。
明治14年曼陀羅寺と岡院が合併し御園村となり、18ヶ村に戻った。
明治22年町村制により、この18ヶ村が合併して園田村となり、旧村はそれぞれ大字(おおあざ)となった

園田の名は橘御園の園と田地が多いことから名付けられたといわれている。
初代村長は御園村の村上氏、2代目は猪名寺の西沢氏等、代々旧庄屋家が就いている。
昭和22年尼崎市と合併し、園田地区が生れた。
合併に際し伊丹市からも合併申入れがあり、園田村は税務、警察、郵便等が伊丹所管であったこともあり、村民は尼崎派と伊丹派に分かれ、刃傷沙汰迄起ったが県の裁定を受けて、内務省令で尼崎と合併した。
戦中に出来た三菱電機が園田村にありながら伊丹製作所と名乗っているのはその名残である。

各村名は清水が45都道府県に152ヶ所、田中が40都道府県に91ヶ所、森が78ヶ村あり、普通名詞の感がある。
冨田も富田の字でトミタ、トンダを含め41ヶ所あり、中には藤田(とうた)の地名も山梨県等にある。
田能は高槻市に同名の地があるがタノの名では田野と記して10ヶ所ある。
穴太は三重県、滋賀県、京都、大阪にあり、この内、三重の穴太は員弁(いなべ)郡にあり、園田の猪名部(いなべ)の分家所在地である。

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園田の小学校事始め

明治6年10月、園田に小学校が下記3校と田能小学校小中島分校(明治10年御園小学校に合併、現小園小学校)が設立され、明治8年、猪名寺に私立有明小学校(明治11年伊丹小学校に合併)がつくられた。

板田小学校(上坂部) 田能小学校(田能) 戸ノ内小学校(戸ノ内)
御園小学校(下食満) 小墾田(おばただ)小学校
戸ノ内分校
明治20年 小墾田簡易小学校 御園簡易小学校 戸ノ内簡易小学校
明治24年 御園尋常小学校 御園尋常小学校 戸ノ内尋常小学校
板田分校―――――――|
明治26年 園西尋常小学校 園東尋常小学校
明治33年 園田第三尋常小学校 園田第一尋常小学校 園田第二尋常小学校
明治42年 (現在地) (現在地) (現在地)
昭和16年 園田第三国民学校 園田第一国民学校 園田第二国民学校
昭和22年 上坂部小学校 園田小学校 園和小学校

当初、小学校の開設、維持費は民負担であり、授業料も取った。
そのため就学率も低く、対策として短期の簡易校が一時設けられた。
今日のように公立で無料となったのは日清戦争の賠償金による。
また、就学年も当初は下等(初等)4年、上等(高等)4年であったものを、小学校6年、高等科2年と義務年限6年としたのも明治37年からである。
このとき高等科があったのは園田小学校のみであった。

学習科目は当初、読、書、習字、作文、問答、算術、体操であった。
教員は師範学校、中学卒の規定があったが、該当者は無く、上坂部の広田菊三郎が最初であって、それまで例えば田能小学校の教員は覚円寺、浄宗寺の住職であった。
なお、小墾田(おばただ)小学校は現在の下坂部小学校である。

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猪名川の洪水と水防工事

猪名川は上流が急峻であるが故か古来度々洪水に悩まされてきた。

史料初見の大洪水は天文5年(1536年)で、正徳2年迄7回の大洪水が記録されている。
次の元文5年(1740年)には江戸時代最大の洪水が起り、諸所で堤防が決壊し多田銀山も被害を受け、各地で田畑、建物、道、橋が流出し多数の溺死者がでた。
その供養塔が田能の農業公園内にある。
また、冨田の船詰神社旧跡の傍らにある「シャリ田」という小字もこの時のことではないかといわれている。
以降、江戸時代で15回の洪水記録があり、明治〜昭和期では28回の大水が発生している。
中でも昭和13年は、池田市木部で6.1mの最高水位を示し、園和住宅も全て床上浸水した。
各所にその時の最高水位が標示されている。

この際、阪急神戸線が阻害してその北部の排水が出来ず復旧に日時を要した。
この結果次の対策がうたれた。
@猪名川工事事務所が内務省(現国土交通省)の管轄で創設された。
A阪急神戸線の高架化が唱えられ、昭和55年漸く園田駅だけが尼崎市内では唯一高架化された。
その工事費66億円は国4、県3、市3の割合で負担した。
また、阪急は当時未販売であった園和住宅を当初の半額の約五千円として売り抜けた。

水防工事では前述の猪名川工事事務所によって昭和21〜24年最明寺川改修、昭和27〜34年藻川改修(含む、軍行橋・善法寺橋・宮園橋・阪急藻川線・田能橋・中園橋・桑津橋架け替え)、昭和34〜37年戸ノ内捷水路(ショートカット)工事(含む、藻川橋・戸ノ内橋架け替え)、昭和34年〜37年利倉捷水路工事(自然林・利椎富池残存)、昭和49年〜54年駄六川改修が行われ、昭和44〜59年一庫ダムが完成した。
今も川西・池田の改修が行われている。

水防工事については古来度々争いがあり、多くは川底さらえが多いが、宝暦3年(1753年)藻川左岸の堤防修理を行おうとしたところ右岸側の村々(杭瀬、東難波を含む)から出水の場合この方へ被害が出ると訴訟が出ている。
しかし、田能・椎堂・冨田・穴太・法界寺・戸ノ内は藻川、猪名川、神崎川の輪中島之内であるため毎年の長雨の水害に不安が多かった。
明治期、これを憂いた戸ノ内町の田中幸三郎氏は有志と謀り、明治37年藻川の改修に着手、半ばして日露戦争に参戦、復員後病身にもかかわらず私財を投じて再着工し同41年(1908年)1月、戸ノ内の囲い堤防を完成させた。
翁はその年に逝去され、この偉業をたたえ昭和3年顕彰碑と銅像が建立(現東会館に移設)されている。

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神崎川について

延歴4年(785年)安威川・三国川が開削によって淀川と連結され、現在の神崎川が完成した。
この年は長岡京完成の翌年で9年後には平安京が完成しており、西国からの荷は兵庫に変わって神崎、大物港で荷揚げし、猪名川筋の荷は戸ノ内・庄本から共に神崎川を経て都へ船送するルートが用いられるようになった。
潮江にあった東大寺領の猪名庄や鴨社と共領していた長洲庄の産物もこのルートから木津川を経て泉木津で陸揚げし陸路東大寺へ運ばれた。
京都の八坂神社社殿の用材もこのルートで運ばれたとの伝承もある。
これらの物資運搬の役割は椋橋庄、橘御園、潮江庄、杭瀬庄、長洲御厨が当たっていた。
藤原頼通が高野山へ参詣のとき椋橋庄の水夫30人が勤めたとの記録もある。
その他、後白河上皇等が熊野詣でに行かれるときもこのルートを経て船移りして行かれた。
この川筋の現今福の地に藤原邦綱が寺江亭を造り後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇、平清盛等が福原、厳島、天王寺等への途中宿泊されている。
ここにはその碑が残されている。

 神崎川の淀川入り口の江口と川尻の神崎、蟹島(現加島)は平安期、天下第一の楽地とされ、「此門連戸、人家無絶」といわれる大集落があって、多数の遊君が船が着くと小舟に乗って群がり寄り夜伽をすすめる声は風浪の音を圧するようであった。
彼女らは東の住吉社、西の広田社を信仰するとされ、巫女の末ではないかとの説もある。
彼女らは所得物を仲間で分配する習慣もあったとされ、一種の集団であったようである。
建永2年(1207年)法然上人の教えを受け5人の遊女が入水しその碑が遊女塚として神崎に残っているのは周知の通りである。

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コレラとその対策

明治42年の地図で中食満の現東高校の地に園田で唯一の病院記号が記されている。
これは明治中期(創設年不詳)に創られた避病院(ひびょういん:隔離病院)であり、戦前までその跡が残っていた。
その姿は馬小屋を思わせる粗末なもので、通常の病院ではなかった。
避病院は当時大流行したコレラ等の疫病患者を隔離するためのもので、いわば死に待ちをする場所であった。

明治12年、18年、23年、28年、コレラ、チフス、赤痢等の伝染病が尼崎で流行し、この内コレラは治療法がなく、その死亡率は7〜8割に達した。
明治28年を最後として流行は終息した。
患者は隔離する以外方法がなく尼崎町に隔離病院が造られたが不足するため中食満にも造られたものである。

伝染病の流行の主因が飲み水であるとのことで、尼崎に上水道設置が望まれ、神崎浄水場が造られた。
当初神崎川の中に井戸を掘り取水したが、後に淀川からの取水に切替えられた。
これは尼崎町、小田地区へ給水するものであった。
次いて南塚口町に阪神上水道組合浄水場、東七松町に水道局が造られ、旧尼崎市域に給水された。
園田村の大部には給水がなかったが、昭和12年、阪急が園和住宅を造成する時、その給水のため現園和北小学校の南に藻川の伏流水を水源として浄水場が造られ、営団住宅及び周辺にも給水したのが始まりである。
昭和22年、園田村が尼崎市と合併した際、この水源及び水道は市が買収し、以後市内全域へ給水された
更に、伊丹市口酒井の大倉池に組合の新浄水場が造られて今日に及んでいる。    

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武田信玄の孫・武田勝親の墓

東園田町1丁目(旧冨田村)の善念寺に武田勝親の墓がある。
善念寺は元禄13年(1700年)善悦開基と旧内務省が明治10年に作った公式記録にある。
それ以前は豊中市小曽根の西福寺道場があり、今なおこの寺の檀徒が数軒残っている。
善悦は寺の過去帳では勝親であるとされている。勝親は武田勝頼の三男で信玄の孫である。
武田氏は清和源氏の一統で源義光(義家の弟)を祖とし、甲斐源氏(頼朝は河内源氏)として名家であり、既報の承久の乱では東山道を京都へ攻め上った軍の大将を勤めている。
 
織田・徳川軍によって天正10年(1582年)武田家は滅された。
以後の勝親の動勢には諸説あり、その一つは墓地に教育委員会の名で掲示されている池田信輝がこの地に住まわせたとある。
池田は天正8年から天正11年信輝が大坂城、長子之助が伊丹城、次子輝政が尼崎城を預かっており、その後美濃へ転封されているので勝親が幼時のこととなる。

その二は墓碑に刻字されている宝暦3年(1753年)山縣長園(信玄の勇将山縣昌景の子孫)の記事では当時3歳であった勝親は家臣栗原庄衛門に抱かれて逃れ、京都醍醐寺の稚児となり後戸田氏鉄(1617年〜1635年尼崎城主)の家臣斉藤氏によってこの地に住まわされ天和2年(1682年)103歳で死亡したとある。
他の説は無視したい。
善念寺は由来は定かではないが癇薬を売出し、「とうだのかん薬」として周辺に著名であり、そのため財をなし、戦後の農地開放まで園田の最大の地主であった。
また、子孫の武田勝達(1862年60歳で没)が1836年医学を修め分家して医業を始めた。
その子孫は阪大医学部を卒業した名医であった。
尼崎医師会の理事も務めている。
しかし、彼は終戦頃に死亡し、一方、善念寺は戦中の空襲によって消失したため医薬業は廃絶した。

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園田競馬場

兵庫県には西宮市に国営の競馬場がつくられているが、これとは別にローカルの競馬場が淡路島につくられた。
しかし、当時は本土からは船で渡島する必要があり地域的に集客数が低く、本土への移転の声が上がった。
その候補地として、阪急神戸線が既に開通しており阪神間で交通の便が良く、かつ、広大な農地が残っている椎堂(現2丁目)、田能にまたがる農地が選ばれ、昭和3年用地買収が開始された。

当時の農地買価は反あたり千円前後といわれている。
昭和5年、近辺の市町村(園田は未だ園田村であった)協同組合として園田競馬場が開設された。
当初は、馬場をフェンスで囲んだもので、北辺は猪名川縁であり、スタンドや厩舎も無く、阪急の園田駅も無かったため、競馬開催日だけ現園田駅の西方(旧瓦宮の飛地)に臨時停車場を設けてその用に供した。

現園田駅は昭和11年乃至12年に完成している。
前述のとおり厩舎が無く、地元の馬は周辺の農家に預け、馬手も同様に宿泊した。
多くの農家は自家に馬小屋を設けたが、中には自有の農地、林に中二階の家を建て一階に馬、中二階に馬手を住まわせた。

今もその家が小住宅に改造して富田村に残っている。
馬と馬手は止むを得ず一般道路を周回した。その際の糞害や果樹泥棒、窃盗、痴漢行為が問題となり、競馬場廃止運動が激しく起こった。
当初、競馬開催は年1回数日であったものが毎月数日の開催に増加し、収益も増え、現状の如く厩舎、宿舎、スタンドも開設され、この不満も消失し現状に至っている。
ちなみに園田競馬場遺跡と称されているのは猪名川改修前競馬場に隣接していた猪名川河床から掘り出された石器や壺、甕、鉢、皿、高杯等の土師器、須恵器を指すもので現在は猪名川改修のためにその跡も失われている。

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十九神社の由来

椎堂村の十九(とく)神社の祭神は豊受毘賣命(トヨウケヒメノミコト)であり、伊勢神宮外宮の祭神である。
この神は記紀ではイザナミから生まれた和久産巣日神(ワクムスビノカミ)の子であり、穀物の神とされている。

十九神社に掲示されている由来は椎堂村の亀田先生の話では村の伝承ではなく、先代の栃尾宮司が書いたものだとのことである。
この掲示の由来は外宮に伝わる「止由気(トユケ)宮儀式帳」の記事を用いたもので、雄略天皇(二十一代)の夢に天照大神が現られて「私は食物を安く食べられない、丹波国比治の真奈井に居られる等由気(トユケ)大神、御饌津神(ミケツカミ)を私の所に欲しい」といわれた。
これが伊勢外宮のはじまりとされている。

また、丹波国風土記では比治山に麻奈井という池があり、この池に降りてきた天女が羽衣を失ってその地に留まり、不治の病を治す酒を造った。
これが豊宇加売命(トヨウカノメノミコト)豊宇加能売命であるとの記事がある。
この地は京都府京丹後市峰山町付近とされている。
現在、峰山町には天女の舞が伝わっている。

一方、十九の名の由来は三説あり、
1)トユケがトクになった。
     例:居古太が池田。
2)十九の神を祭った。
     例:十五の神は都島神社、淀川神社でいずれも洪水対策として多くの神を祭っている。
       但し、十九社にはそのいわれはない。
3)「十九の坪」の土地の名前である。
       現地は豊島南条の十条一里にあり十九の坪であるのは不明である。

おそらく第一説が妥当であろう。
十九神社の神社明細帳では、境内1533坪となっており、尼崎最大の境内地となっているが、これは疑問である。

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冨田の七つ石と牛回し

宝暦2年(1752年)の記録では冨田村に七つ石と呼ばれる石が4カ所に分かれてあった。
この内1カ所は昔洪水で堤防が切れ川中へ崩れ埋まり行方が判らなくなった。
残っている3カ所の内、一つの石は妻夫石または強盗石と呼ばれている。

この石は金石であって、神代の時にこの石を盗人が切り取った。
このためこれを明神強盗といい、それ以来この石を強盗石と称えて来た。
この石に腰をかけると者は盗人になってしまうといい伝えている。
現在この石の所在は不明である。

また、村の中の小字門廻り(カドメグリ)というところに長さ4間1尺、幅2間の塚があり、5月5日(旧暦)に村中の牛を引き出しその角を菖蒲で飾ってこの塚の回りを引き回した。
そのためこの塚は村中の共有地として扱った。
ちなみにこの時の牛数は3匹であった。
他に1カ所塚があったがここは個人所有であった。
牛回しの習慣は冨田だけでなく、久々知、西難波にも牛廻しの小字があり、法界寺にはメグリの地名があって、普遍的なものであった可能性がある。

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